三陸紀行-2

大船渡郊外のホテルに1泊。翌日は個人行動でした。



ホテルの部屋より。あまりにも静かで、美しい海。
津波さえ来なければね、大船渡は本当にいい所なんです。」というガイドさんの話が思い出されます。



同僚の車で大船渡線細浦駅へ。この付近はBRT専用道が整備されています。
鉄道時代の細浦駅は画面奥。築堤上のホームの石積みの他は、何も残っていません。


気仙沼行BRTに乗車、2駅ほど専用道を進んだ後、ぷいと田舎道に逸れて坂を上り始めます。
どうやら山の上から陸前高田へと乗り入れる様子。仮設の病院や市役所を通り過ぎると、平野部へ下りていきます。



そこは一面の砂の大地。道路の両側にはかさ上げされた土砂がうずたかく、そして整然と積み上げられています。
中心市街地に甚大な被害を受けた高田の町。
津波の痕跡も、そこにあったはずの営みも、何もかもがTP11mの高さに積み上げた土砂の下に埋もれようとしています。
あまりに圧倒的かつ、無慈悲な光景。だがしかし、全てを埋めない限りこの町の再生は一歩も進みません。


壮絶な車窓と裏腹に、前列の女子高生は登場人物がダルマに容赦なく虐殺されまくるというどうしようもない漫画を熟読。
(だって見えちゃったんだもん。)
ここで読む漫画かよ!と思いましたが、それもまた日々の生活がそこにある証左ではありました。


最後の1駅のみ専用道に戻って気仙沼着。乗客数は右肩上がりで、座席がほぼ埋まる盛況に。
地元住民の足として、早くも定着した様子がうかがえました。


気仙沼駅は一ノ関方面のみ鉄道で、大船渡方面・柳津方面はBRTという混合状態。
大船渡線BRTは毎時1本、気仙沼線BRTに至っては2本という高頻度運転に対し、鉄道は1日10本。
「ほらほらっ、BRTにすればこんなに便利ですよ!」とJRが熱弁しているような気がします。


気仙沼線BRTに乗り継ぎ、さらに海岸を南下。大船渡線に比べると観光客率が高めでした。
特に本数が半減する本吉以南はほぼ全員観光客。この辺りまで来ると、遠出(仙台まで)は車、という事になるのでしょうか。


気仙沼線に"乗る"のは2008年以来。海を近く遠く見下ろす風光明媚な路線でした。
歌津駅/2008年)


歌津駅周辺/現在)
なぜか改造車が集結していました。何のイベントだったのだろう。


志津川駅ホーム/2008年)


志津川駅前/現在)
宮脇俊三「時刻表2万キロ」に記された、開業時の熱狂が思い起こされます。


次の陸前戸倉から内陸へ。柳津からは鉄道が復旧していますが、本数が少ないため、石巻線と接続する前谷地まで走ります。
(ただし、乗車した便は柳津から鉄道利用でも接続は変わらず。)
気仙沼から前谷地まで、全線乗り通しで所要は2時間半。さすがに長かったです(被災前は快速列車で1時間10分)。


さて、このBRTを将来どうするのか。
現在のBRTのルートは、大雑把な印象で専用道3割、一般道7割と言った所。まずは全て専用道に…という必要は正直薄いです。
被害が酷い所ほど、町は高台に一から作り直しです。もはや高田市街地では、線路の痕跡を探す術さえありません。
志津川付近では一般道に降りて役場へ寄る方が便利なため、せっかく整備した専用道は早朝深夜以外活用されていません。
道路交通量の多い市街地ほど、マメなルート設定ができるBRTの利点を生かして一般道に降りた方が良いという矛盾。
新たに専用道を整備して利便性が上がりそうなのは、峠越えの陸前戸倉〜柳津間くらいだったように思えます。
もっとも、ここを復旧させるなら柳津止まりの鉄路を延ばすべきです、本来は。


そうなると、BRTは現状でもとりあえず地域交通の利便性を確保できているという現実が浮かび上がります。
距離の短い大船渡線はともかく、気仙沼線の全線利用はきついものがありますが、高速バス等での代替も可能でしょう。
いっそこのままでも…という思考が頭をよぎりますが、一緒に三陸へ来た同僚が鋭い発言をしていました。


「でもバスならば、やめるのも簡単ですよね。」


そう、鉄道とバスでは、廃止に要するエネルギーがまるで違います。
全国的にも注目されている今は、大増便もするし、観光客向けの車両も次々に投入する。
でもそのうちに本数は削減され、いつの間にか鉄道時代と変わらぬ閑散ダイヤになり、専用道は使われなくなって…。
10年経ったら自治体運営のデマンドタクシーに成り果てていた。そんな事態が起こらないとも限りません。


そしてあえてマニア思考で言わせてもらうならば、やはりこれは鉄道ではありません。
昨日盛駅で三鉄と並んだ時からずっと拭えない違和感。
車内放送のテープは、「BRTの直前直後の横断は…」などと「BRT」という単語を頻発させていました。
「これはバスではありません、BRTという未来の乗り物なのですよ」と喧伝している訳ですが、でもこれやっぱりバスです。
線路が敷かれ列車が走らなければ復旧ではない、復興ではない。
マニアだけでなく、多くの地元関係者がそんな思いを抱いているのではないでしょうか。


理念と実益、費用対効果、どこを伸ばして何を断ち切るか。
復興のみならず、この国の地域交通のあり方にさえも一石を投じる、そんな乗り物でした。


前谷地から石巻へ出て、5月に開通したばかりの仙石東北ラインに乗車。
…と思いきや遅い昼食をとった焼きそば店がオーダー間違いをして見事に乗り遅れ。
先発する仙石線の各駅停車でとりあえず野蒜まで進む事にしました。



仙石線復旧に合わせ、野蒜駅は高台へ移転。しかし街づくりはこれから。山を削り谷を埋める大工事中です。
以前のダイヤを踏襲し快速(仙石東北ライン)が停車しますが、沿線人口はゼロ。



新駅からは旧駅を見通すことが出来ます。
駅舎は再整備されコンビニが入居していますが、ホームは被災時のまま駅名標もひしゃげているとか。
野蒜には23年前に降り立ったことがありますが、駅前から海が見渡せた記憶はありません。


駅前を一巡りして、予定より1時間遅い仙石東北ラインに初乗り。
東北本線との接続線はわずか数百メートルで、あっという間に通過…するはずがよりによって接続線上で防護発報受信。
松島付近の踏切に人立入とかで、運転再開まで6分も新線を満喫するという妙なオマケが付きました。


新幹線から見下ろす仙台の街には、震災の痕跡を見つける事は困難でした。
一寝入りすれば、もう東京です。いつも通りの、東京。


何故復興は進まず、何が足りていないのか。今、何が求められているのか。
「人手不足で工事が進まないのです。内陸部や東京に出た人が帰って来ず、オリンピックがそれに拍車をかけてしまいました。
 やっと有資格者を見つけても、実務経験のないペーパドライバーでその教育にまた時間を取られ…。」
「見ての通り、物はあるのです。今我々が一番思うのは、"忘れられるのではないか"という恐怖感です。」


三鉄や大船渡で聞いた、生の声が蘇ります。
日々の生活の中で薄れゆく、あるいは忘れようとする震災の記憶。
東北は前に進もうとしています。でもその歩みには多くの困難が伴う事を、現地の光景はまざまざと示してくれました。
離れて暮らす我々は決してその苦難を忘れてはなりません。東北の為に、そして自らの為に。


三鉄社員さんとガイドさんは様々な事を語って下さいましたが、一つ、ぴったり合致した言葉がありました。
津波が来る時、遠くに逃げようと思うな。高い所へ逃げなさい。」
多くの犠牲と引き換えに得た、警鐘です。