落差と風化と、今そこにある現実。

会社の先輩から「JR東日本パスで東北に行こう」と誘われました。
その心意気やよし、観光で現地を潤すのも一つの考え方です。
二つ返事で引き受けて、数日後伝えられた行程に絶句。
 
…いや、そこはちょっとどうなんだろう。
 
迷いがあったのは事実ですが、結局行ってきました。
朝イチの「やまびこ」は完全に満席の盛況。
仙台はともかく、福島辺りのブルーシート率は正直我が家近辺と大差がありません。
 
新幹線を降りて、レンタカーで東へ。摺沢も千厩も、古い町並みが完全に残っています。
国道284号を東へ。ごくごく普通の風景が流れ、そしてそのまま市街地へ。
 

 
高台にある気仙沼駅の佇まいは、以前訪れた時と何も変わっていませんでした。
一ノ関方面の列車は既に復旧し、ディーゼルカーがエンジンをふかせて出て行きます。
海へと緩やかに下る駅前の商店街も、普段の表情を保っているように見受けられます。
 
だけど角を一つ曲がった瞬間から、本当にその瞬間から世界は一変しました。
 

 
1階は骨組みだけになった建物群。
打ち捨てられた信号機。
黒焦げの漁船。黒焦げの家屋。
道路を半分塞いだオイルタンク。
仮復旧はされたけど、堆積した瓦礫の分だけ歩道より盛り上がった車道。
引かない水。
住宅街に乗り上げて横転した漁船。
土台だけ残った家の前で立ち尽くす夫婦。
 
何も出来ぬまま、車は国道45号へ。嘘みたいに良く整備された道を北へ向かいます。
高台から見渡す太平洋は、どこまでも青く。
だけど坂を下り集落に入れば、見かけるのはシャベルを片手に隊列を組んだ警察官。
 
そしてカーブの向こうに現れる、陸前高田
陸前高田だった、土地。
 
観光写真は、一番絵になる地点で撮るもの。
だから現地に行ってみると、ガイドブックと全然雰囲気が違って愕然とする事がよくあります。
だけど高田は、どちらを向いても新聞やTVが伝える風景そのものでした。
 
国道45号の橋は通行止めになっていて、車は気仙川にそって北上。
市中心部は川の向こう側。
しかし、その向こう側へ渡ろうと言い出す者は、とうとう現れませんでした。
 
内陸へ戻る国道343号との合流地点、その手前にはJR大船渡線の踏切。
警報機は損壊。高田側は路盤のみを残し流出。しかし逆方向には線路がしっかりと残っています。
まさにここが、地獄の入口でした。
 
343号の沿道には、鮮やかな新緑がどこまでも続いていました。
海岸とのあまりの落差。
そして、ここと変わらぬ平和な風景が残ったにも関わらず、もう立ち入れない福島。
 
正直、首都圏の人間は早くもあの惨劇を忘れつつあります。
帰りの新幹線で、同行者がぽつりと放った一言。
 
「被災地で何か買って貢献しようと思っていたけど、全然そんな気にはなれなかったな」
 
厳しい現実を、噛み締めるほかありませんでした。
 
同じ三陸でも、津波をかぶったエリアとそれ以外には厳然とした格差が生じつつあります。
福島とそれ以外の格差。
東北と関東の格差。
東日本と西日本の格差。
市民と永田町の格差。
 
頑張ろう日本、と1億2千万人がひとつになれる期間は、現実問題として長くはありません。
誰もがいずれ目の前の事しか見なくなる。しかし被災地は未だこの有様です。
避け得ない風化(または逃避)と対峙しながら、僕らは何が出来るのか。
そろそろ何かを見つけなければ。
焦りは禁物だけど、焦りを感じる事が出来ただけ、現地に行った意義はあったのだと思います。
そう思わせて下さい。